プレリとか『けいおん! college』とか
2012年9月30日 読書
○プレリ
・土曜1回目ゴルガリ3-0
なんか早いところ多めに剥いて前のめり気味ビート組んだらみんなゆっくりしてくれた。
・日曜1回目セレズニア2-1
トークン出すカードと居住といっぱいある強めデッキ。ボムが少ない。お化けラクドス(イゼット崩れ)に負け。
・日曜2回目イゼット3-0
イゼットだけどラクドス。青いカードはティムとプロモドラゴンのみ。除去いっぱいで強かった。イゼット崩れのラクドスでこれだけラクドスなのだからちゃんとラクドスしてるラクドスはどれだけラクドスなのかと心配になった。
・各ギルドイメージ
アゾリウス→青厨
ゴルガリ→キモヲタ2ちゃんねらー
ラクドス→ニコ厨&ツイッター民
セレズニア→カジュアルホモ
イゼット→(^ω^)
○『けいおん! college』
ゼロ年代終盤に突如として現れ、その後約3年に渉って日本の萌え文化界を牽引し続けた一大コンテンツ『けいおん!』が、今静かにその終焉を迎えようとしている。
思えば凄まじい作品だった。女子高の軽音部を描いた物語は、それまでに存在した「空気系」「日常系」「無菌系」などの(呼び分ける意味があるのかどうかもわからないような)多種多様なジャンルを包括し強引にまとめ上げ、更なるその先を垣間見せてくれた。に留まらず、『けいおん!』は日常を描いた物語でありながら、過去10年に存在した非日常の物語の想像力をも上回る力強い生を、未来への意思を感じさせてくれた。
その力強い物語に、京都アニメーションによる設定の肉付けと細部まで丁寧な作画が加わり、主題歌・BGM・劇中歌などの音楽が乗せられ、一つのアニメーション作品として完成する(※)。奇しくも世の映像技術が一つの跳躍を遂げる頃にあって、地上デジタル放送への切り替えとBDの普及もまた、『けいおん!』の爆発的ヒットに無関係ではない。
更には成熟した二次創作の市場も『けいおん!』の止め処ない人気を推し進め、とりわけツイッター(を始めとしたSNS)・pixivの両者における、物語の(それまであまりメジャーではなかった)二次的消費方法の発展と拡大は、『けいおん!』の発展とまさに表裏一体の関係にあった。
全てが奇跡的だった。まるで仕組まれたかのようだった。この10年の文化の、科学技術の、社会的思想やコミュニケーションツールの、その他あらゆるものの発達は、全て『けいおん!』という物語を迎えるために進んでいたのだと、そう錯覚してしまうほどにそれは、生まれるべくして生まれた物語だった。
しかし『けいおん!』は、所詮ゼロ年代の包括でしかなかった。たとえそれがどんなに完璧な包括だったとしても、だ。未来への、来る次の10年に向けた新しい想像力への布石を打ちこそしたが、しかし確かな未来像を映し出したわけでは決してなかった。
その限界こそが、この『けいおん! college』に描かれている全てだと言っても過言ではない。3.11によって一夜にして引き起こされた劇的なパラダイムシフトの波に飲まれ、数限りないコンテンツが「終わコン」と化していった中で、『けいおん!』もまた他の作品と同じように、沈んでいく運命からは逃れ得なかった。『けいおん!』には、そのパラダイムシフトを乗り越えるだけの力は、残念ながら備わってはいなかった。その乗り越えられなかった限界が、大学編には残酷なほど明確に描かれている。
カリスマに天然、不思議と人を引き付ける魅力を持った唯は、大学で一体どれほどの存在感を示せているか? 引っ込み思案の澪に、世界は再び手を差し伸べてくれたか? 広い世界に出てみれば律は、どこにでもいる普通の女の子に過ぎなかったのではないか? 開けすぎた視界の中で紬は、何の役割を果たすことができるのか? 新たな10年は決して、ゼロ年代の延長線上そのままに存在するのではないことを、彼女たちは身をもって示してくれている。
劇場版による余熱と、市場が大きすぎるために続いている個人消費の延長、そして代替となるコンテンツの不在によって、『けいおん!』のムーヴメントは一見、現在でも続いているようである。しかしそれも、今回の大学編と、発売が予定されている梓の高校生編を目処に静まっていくことだろう。
言うなればこの本は、墓標だ。かつて存在した『けいおん!』という巨大コンテンツの。今はただ跪き、その往時を忍び、それに取って代わる想像力の登場を祈る。
※ けいおんは原作漫画とアニメとではもう全く別の作品である。原作なしにはこの物語はもちろん存在しなかったし、京都アニメーションによる彩りなしにはここまでのムーヴメントは起こらなかった。どちらが優れているとかではない。
・土曜1回目ゴルガリ3-0
なんか早いところ多めに剥いて前のめり気味ビート組んだらみんなゆっくりしてくれた。
・日曜1回目セレズニア2-1
トークン出すカードと居住といっぱいある強めデッキ。ボムが少ない。お化けラクドス(イゼット崩れ)に負け。
・日曜2回目イゼット3-0
イゼットだけどラクドス。青いカードはティムとプロモドラゴンのみ。除去いっぱいで強かった。イゼット崩れのラクドスでこれだけラクドスなのだからちゃんとラクドスしてるラクドスはどれだけラクドスなのかと心配になった。
・各ギルドイメージ
アゾリウス→青厨
ゴルガリ→キモヲタ2ちゃんねらー
ラクドス→ニコ厨&ツイッター民
セレズニア→カジュアルホモ
イゼット→(^ω^)
○『けいおん! college』
ゼロ年代終盤に突如として現れ、その後約3年に渉って日本の萌え文化界を牽引し続けた一大コンテンツ『けいおん!』が、今静かにその終焉を迎えようとしている。
思えば凄まじい作品だった。女子高の軽音部を描いた物語は、それまでに存在した「空気系」「日常系」「無菌系」などの(呼び分ける意味があるのかどうかもわからないような)多種多様なジャンルを包括し強引にまとめ上げ、更なるその先を垣間見せてくれた。に留まらず、『けいおん!』は日常を描いた物語でありながら、過去10年に存在した非日常の物語の想像力をも上回る力強い生を、未来への意思を感じさせてくれた。
その力強い物語に、京都アニメーションによる設定の肉付けと細部まで丁寧な作画が加わり、主題歌・BGM・劇中歌などの音楽が乗せられ、一つのアニメーション作品として完成する(※)。奇しくも世の映像技術が一つの跳躍を遂げる頃にあって、地上デジタル放送への切り替えとBDの普及もまた、『けいおん!』の爆発的ヒットに無関係ではない。
更には成熟した二次創作の市場も『けいおん!』の止め処ない人気を推し進め、とりわけツイッター(を始めとしたSNS)・pixivの両者における、物語の(それまであまりメジャーではなかった)二次的消費方法の発展と拡大は、『けいおん!』の発展とまさに表裏一体の関係にあった。
全てが奇跡的だった。まるで仕組まれたかのようだった。この10年の文化の、科学技術の、社会的思想やコミュニケーションツールの、その他あらゆるものの発達は、全て『けいおん!』という物語を迎えるために進んでいたのだと、そう錯覚してしまうほどにそれは、生まれるべくして生まれた物語だった。
しかし『けいおん!』は、所詮ゼロ年代の包括でしかなかった。たとえそれがどんなに完璧な包括だったとしても、だ。未来への、来る次の10年に向けた新しい想像力への布石を打ちこそしたが、しかし確かな未来像を映し出したわけでは決してなかった。
その限界こそが、この『けいおん! college』に描かれている全てだと言っても過言ではない。3.11によって一夜にして引き起こされた劇的なパラダイムシフトの波に飲まれ、数限りないコンテンツが「終わコン」と化していった中で、『けいおん!』もまた他の作品と同じように、沈んでいく運命からは逃れ得なかった。『けいおん!』には、そのパラダイムシフトを乗り越えるだけの力は、残念ながら備わってはいなかった。その乗り越えられなかった限界が、大学編には残酷なほど明確に描かれている。
カリスマに天然、不思議と人を引き付ける魅力を持った唯は、大学で一体どれほどの存在感を示せているか? 引っ込み思案の澪に、世界は再び手を差し伸べてくれたか? 広い世界に出てみれば律は、どこにでもいる普通の女の子に過ぎなかったのではないか? 開けすぎた視界の中で紬は、何の役割を果たすことができるのか? 新たな10年は決して、ゼロ年代の延長線上そのままに存在するのではないことを、彼女たちは身をもって示してくれている。
劇場版による余熱と、市場が大きすぎるために続いている個人消費の延長、そして代替となるコンテンツの不在によって、『けいおん!』のムーヴメントは一見、現在でも続いているようである。しかしそれも、今回の大学編と、発売が予定されている梓の高校生編を目処に静まっていくことだろう。
言うなればこの本は、墓標だ。かつて存在した『けいおん!』という巨大コンテンツの。今はただ跪き、その往時を忍び、それに取って代わる想像力の登場を祈る。
※ けいおんは原作漫画とアニメとではもう全く別の作品である。原作なしにはこの物語はもちろん存在しなかったし、京都アニメーションによる彩りなしにはここまでのムーヴメントは起こらなかった。どちらが優れているとかではない。
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